「AIR」「聖地には蜘蛛が巣を張る」「エターナルズ」みたよ~

「聖地には蜘蛛が巣を張る」

今年映画館で観た作品の中ではトップかも、ミソジニーにまつわるクライムスリラーで変型ノワールでもあるという感じ。全編を通して主人公であるジャーナリストの視点と同じかそれ以上の分量でもって犯人側の視点が描かれるのが新鮮だった。夜の街の撮影がかっこいいし、禍々しい。犯人からミステリアスさ、かっこよさのようなものを剥ぎ取り、一人の卑劣なしょーもない、しかし「何処にでもいそうな」人間として見せよう、という意思を強く感じた。オチもかなり強烈だが、中盤の謎に付け回されるシーンの「嫌な感じの緊張感」がすごかった。他に言ってる人も多そうだけど終盤の展開も込みでナ・ホンジンの「チェイサー」を思い出しましたね。

「AIR」

たいへん気が利いており、抑制された映画だった。極めて映画的でない商品開発のエピソードを映画として見せるために、ちょくちょく小さなセリフが後に利いてくる構成とか小ギャグを入れてるのが好ましく見やすかった。プロジェクトX的な話であり、例えば普通だったら「冒頭で主人公が他の選手に目をつけていたのに断られて失意の底にある」というセットアップから始まったりしがちなのだが、本作ではそういうのがない。劇映画的な脚色は(これでもかなりしてるんだろうけど)最小限だと感じましたね。

「エターナルズ」

とうとう見たけどNot For Meだった。エターナルズそのものの責任というよりは、MCU的な建付けに飽きてきてるというのが大きいとおもうけど。とにかく毎度世界が終わるようなエクストリーム脅威をギリギリ阻止する話よね。無限に広い宇宙、宇宙的なスーパー存在があって、多元宇宙があって、おれたちが人間に文明を与えましたって人たちが出てきて、その中でロボットのスーツ来たおっさんとかの出る幕はもうないよな~。不思議なことに、見ているぶんには、セレスティアルズやディヴィアンツと戦ってるのを見るよりもミステリオやジョーカーと戦ってるほうが緊張感も嫌悪感も恐怖もあるように感じる。おれがこう感じるのは、やっぱエンドゲームを経て気持ちが一度途切れてるからだろうなあ(1番好きなMCU映画は「ファー・フロム・ホーム」なので、エンドゲーム後なのですが)。

エターナルズって要は神様なので普通だったら共感不能な存在なんだけど、そこにわりと人間的な感情の問題を付与することで見やすくさせようとしてるという映画ですよね。でも万年単位で生きてる人が共感可能な問題を共感可能な形で抱えているということ自体に納得も共感もできないんだよな。MCUの中でもかなりフィクション度が高いヒーローチームだとおもうので(いやみんな高いですけど)気持ちが離れてるときにこのスケールをぶつけられると「もういいや」となるというか、ハンターハンターでいきなり巨大な暗黒大陸のことを知らされたときの気持ちになった(このペースでこの風呂敷を畳みきれるわけないんだからもうどうでもいいやと思った)。マンガの長期連載でもドラマでもなんでもシリーズが長期化すればするほど物語が成熟し大人びていくものだと思うんだけど(ジョジョとかかなりそうだと思う)、ことMCUに限っていえば、スケールの上昇にともなってどんどん幼稚化しているように感じられてしまう。もちろん多様性描写など成熟していってるパーツもあるわけですが、物語自身が幼稚化していってることを止めてないんだよな~。