「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」みた
友人たちと鑑賞。池袋のレーザーGT吹き替え(上田誠目当てだ)で豪勢に見た。最初のSwitchのCMのSwitchがデカすぎて笑ってしまった。
感想としてはとにかく難解な映画だったということに尽きる。難しい映画だと感じたな~。多くの部分で物語の繋がりがなく「マリオだからそうなってる」という感じなんだけど、マリオだったらなんでそうなるのかもよくわからなかった。コングたちはあの爆速のカートが走る大通りが一本しか無い謎の国家に暮らしてるの???とか、そういうしょうもないことがいちいち気になってしょうがなかったし、説明もされないのでとにかく「難しい」という感想になったね。マリオの映画がヒットしたことでゼルダなど任天堂作品が映画化されやすくなったと思うのだけど、ドンキーコングを映画化する場合、あの世界観を前提にしたら窮屈になりやしないか……?
原作愛、というか原作要素、つまりマリオのゲームの要素が多分に含まれているのはわかって(たぶんおれは平均的な観客よりはだいぶマリオに詳しいほうだとおもう)、楽しく感じられる場面もおおかったけど(Twitterで大人気の破滅型チコくんはかわいかった)場面ごとの繋がりがおそらく意図的に弱く作られているのでやっぱり難しい映画だと感じたな~。こういうこと言うと「考えるな、感じろ」みたいな意見が来がちなんだけど「いや、おれだって考えたくないんだが、映画が考えさせてくるんだよ」という感じです。あと、カートですよ、レインボーロードですよ、みたいなのが、タスクをこなすかのように提示されるのが気にかかった。この映画においてファンサが最も重要なものだっていう価値観はわかるんだけど、マリオ作品のファンってマジでいろいろいるからね。
やっぱ「自分が好きなマリオ」と「一般的に好まれてるマリオ」または「世界に説明されるときのマリオ」像の乖離が、乗り切れなかった1番の理由だろうな~。ブルックリンが最後あんなことになったのにはマリオも結構責任があるとおもうんですけど、自分でつれてきたクッパを自分で倒したらヒーローって、そんなんありか? 親父に承認される、というのも取ってつけたような決着に感じたな~。マリオってなんかもっと超常的な存在であるというイメージが個人的には強い。超常的で寡黙なスターであるマリオを人間化するというのが今回の映画の重要な目的であったように思うが、おれはそんなことしないでいいと思いますね。よく「既存的な葛藤を前提としたストーリーラインにせず、マリオの映画としてゲームっぽくすることを徹底した」というような表現で褒められてる本作だけど、この映画は全然そうなってないでしょ。むしろマリオに家族や仕事がらみの不要な葛藤、そして人格を付与し、ゲームっぽくすることに全振りすることを恐れている作品であるように見えましたね。最初の「It’s You Mario」のCMで大変感動したんだけど、マリオが我々であるためには、マリオは入れ物でなくてはならない。葛藤し、家族に劣等感を覚え働くマリオという取ってつけたような人間性は(弟思い、ってところだけはあっていいとおもうんですが)むしろマリオが本来持っているはずの神秘性や魅力を剥奪していると思う。自己分析すると「マリオを人間化する論理的な物語」なのか、それとも「マリオファンのためのイメージの連打」なのかという統一性がないために、混乱して中盤以降難解に感じられたんだとおもう。
おれのなかのマリオって(それも後天的なイメージなのは重々承知してますが)誰かが真剣な話してるとき部屋の隅のキノピオの上で無限ジャンプしてたり、空気を読まずひたすら上スマしてたりする人なので……。インターネットの感想ツイート郡を読んで、怒デス的な「ナンセンスで激しく超常的なもの」を期待してたので、常識的な物語の中でつまらないところに着地してるのはショックだったな。なんかしみったれた人間っぽいマリオが出てきたとおもったら意味不明異世界に行かされて難解だと混乱してると急にしみったれたマリオがもどってきて終わるという感じでしたね。ほんと、映画の褒めかたでバズってるやつって嘘をつくところから始まってるんだなという思いです。もちろん楽しい部分もあるし、マリオ作品に慣れ親しんで来た人間にとっては嬉しい映画化でもあったわけだけど、万人が大手を振って大絶賛するような作品でないことは明白で、それが褒められないと炎上するのコワすぎるなインターネット、とおもった。